前回はラノベでしたが、今回は完全に大人が大人のために書いた小説。鈴木傾城『スワイパー1999:カンボジアの闇にいた女たち』、世紀末のアジアの売春地帯を描いています。
1999年、カンボジア、プノンペン、スワイパー村。そこは売春だけで成り立っている村でした。村の入口にはコンドームの宣伝看板が立ち、道を歩けば娼婦たちが声をかけてきます。娼婦たちは皆ベトナム人で、大抵は貧しい家から売られてきた娘たちです。
戦争を繰り返してきた両国の歴史のためにカンボジアではベトナム人は差別されており、ましてや娼婦ともなれば社会の最下層に位置付けられます。女衒や売春宿の経営者“ママサン”にとって彼女たちは金を得るための「商品」でしかなく、客になる男たちには金で手に入る快楽の「道具」以上のものではありません。
この村を訪れる客は国籍も人種も様々ですが、どいつも屍肉をあさるハイエナだと主人公は言います。彼らは麻薬に溺れるように娼婦との関係に耽溺しているのです。この小説では、そんなハイエナの1人である「私」の目を通して、娼婦たちが辿る悲惨な運命を描いています。
あらかじめ断っておきますが、この小説はポルノグラフィーではありません。R18的な展開は期待しないでください。
娼婦の姿を描いた小説は、昭和31年の売春防止法以前はよく書かれていました。古くは滝井孝作の『無限抱擁』や永井荷風の『墨東奇譚』、戦後でも吉行淳之介の初期作品や、芝木好子の『洲崎パラダイス』のように女性が書いたものもあります。
しかし、それらの作品で描かれいる女たちと、この小説に登場するブーンやマイたちはまるで違います。ヒトとモノが違うように違う。その感じはどこから来るのか考えてみますと、どうやらこの小説の女たちが恋していないことに起因するようです。もちろんそれは非難されるようなことはありませんし、むしろ人と人の感情的な繋がりに安易な救いを求めることこそ小説的虚構だと言えるかもしれません。
人間としての尊厳を失い、暴力や薬物、性病によってもはや娼婦としてすら生きていけなくなってしまう女たちを、「私」は自分自身の滅びの予感を通じて見つめ続けます。
「私」も彼女たちをモノたらしめるハイエナである以上、何をしたところで彼女たちを救うことにはならないのです。たとえハイエナであることをやめカンボジアから立ち去ったとしても、彼女たちがモノからヒトは戻れるわけではなく、単に見捨てたということでしかないでしょう。もはや「私」自身が贖罪不可能な位置にいるのです。ただ己の滅びを引き受ける以外に何もできないのです。ラストで閉鎖された売春宿の前に立つ「私」の胸に去来したものは東洋的無常観であったかもしれません。https://www.amazon.co.jp/dp/B018UWWSLI
ラノベっぽくないのをお求めでしたら、僕のセルパブ本もどうですか。全部 kindle unlimited で読めます。